ご挨拶


弊会は2003年7月に「公正な医療体制整備を求める市民の会」として第1弾の情報を発信。この時から、八千代市医療センター(破格の100億円を要して東京女子医大を誘致しました)に関わる問題点を明らかにし、2004年5月から「情報公開と市民の会」の名称で、市民に情報提供をしてきました。その後、2005年2月から会則を整備し、会費を中心とした財政も確立して活動を続けてきました。

病院誘致問題の他にも、市内で起きた様々な疑問や問題点について調査と議論を重ねました。その都度、市政の情報公開を求めたり、議会への陳情・請願を行ったりして、問題解決への努力と市民への情報提供を継続してきました。

その後も①ハコモノ事業である、新川周辺地区都市再生計画の「事業別賛否を問う住民投票条例制定を求める」運動を経て、同計画の見直し②市民参加の議会運営と議会活動の活性化を基本理念とする議会基本条例の制定運動③市民の知る権利などを会のテーマにしてきました。

さて、あなたも弊会に入会しませんか?見学だけでも大歓迎です。「ちょっと難しそうだなあ…」と感じるかもしれませんが、そんなことはありません。テーマはすべて私たち市民が日常的に体験したり感じたりすることばかりです。八千代市民として、日常生活での疑問や不満にたいする解決への道を共に考えてみませんか?

●事務局からのお知らせ
これまで長年にわたり公式ホームページにて情報発信を行ってきましたが、システムのトラブルにより表示不能となりました。また、移転もできなくなりました。お詫び申し上げます。
今後は本サイトにて新規に情報発信を再開いたします。
なお、これまでの情報を御希望の方は、下記までご連絡いただければ別途に提供いたします。(2016年11月1日)

メールアドレス 4111920001@jcom.home.ne.jp








2021年10月17日日曜日

寄稿㉓

追悼 原 弘志代表の死を悼む


               

情報公開と市民の会・事務局長 三田  登   

弊会代表の原弘志さんは、去る10月7日に永眠いたしました。(享年83才)謹んで御冥福をお祈り申し上げるとともに、少し遅くなりましたが、ここに報告いたします。

ブログ冒頭にもあるように、弊会は2003年7月に「公正な医療体制整備を求める市民の会」として、八千代市医療センター設立(破格の100億円を要しての東京女子医大誘致)問題に裁判闘争も含めて取り組み、2004年5月からは「情報公開と市民の会」に改称。2010年頃には新川周辺地区都市再生計画の事業別賛否を問う住民投票条例制定運動を牽引し、市長リコール運動など、今日に至るまで、八千代市における市民運動体として、その存在感を示してきました。

住民投票条例制定運動後に旧3役が退会後は、曽我正男さんが代表に就任し、同時に入会間もない立場ではありましたが私が事務局長となりました。しかし、曽我さんは6年前に胃癌で急死。その後に、会の生え抜きである杉田尚志さんが代表に就任しましたが、体調不良により、約1年前から原さんが代表に就任しました。

しかし、原さんは就任直後から肺疾患が見つかり闘病生活に。この1年間、会議にもあまり出席できない状況が続いていましたが、ついに帰らぬ人となってしまいました。誠に断腸の思いです。

私は情報公開と市民の会とは12年前から関わってきましたが、原さんは、側面からではありますが、もっと前から関わっていたと記憶しています。

原さんは、古くから八千代市の少年野球チーム「東南クラブ」の指導者であり、連盟の役員としても名の知れた方でした。私も20年以上前に「大和田タイガース」の監督をしていた時期があるので、私とは、むしろ、そちらのお付き合いのほうが長いとも言えます。

また、原さんは八千代台南自治会会長とともに、八千代市議会議員を3期12年勤め、とりわけ八千代医療センター問題の質問を必ず行っていました。

温厚な人柄で、私は彼の怒った顔を見たことがありません。その性格からか、思想信条は左でも右でもない中道派だったと認識しています。

私も八千代市議会議員として、現在2期目ですが、議会内でも原さんとは協力関係にありました。考えの一致しないことも少なからずありましたが、とにかく私は「人間・原弘志」が好きでした。だから、市議を引退された後に情報公開と市民の会・代表をお願いしたのです。私のお願いを快諾してくれた時はうれしかった。でも、皮肉なことに原さんに残された時間はあまり残されていなかったのでした。もっと多くを語り合い、酒を飲みかわしたかった。しかし、もはや叶いません。

葬儀は家族葬と聞いていたので参列は諦めていたのですが、御遺族のご配慮で御焼香できたことは幸いでした。原さん、本当にお疲れ様でした。安らかにお眠りください。合掌。